九十九里にも米軍基地があった

昨日のすいとんを食べよう」の会で語られた、元幼稚園園長の小沢君代先生(74歳)の戦争体験談を掲載します。



昭和23年4月に、突然かまぼこ型の兵舎が建てられて米軍基地ができた。ドカン、ドカンと云う射撃演習の音が今でも聞こえてくる気がします。
基地ができたことで、クリーニング・床屋・マッサージ等の職業は潤いましたが、ほんの一部で生活に支障をきたした人の方が多かったと思います。
基地があることによって通訳をやっている方がいて、小学校6年生の時に英語を教えてもらったことがあります。
12月のクリスマスに、地元の子供たちをキャンプに呼んでチョコレートやビスケットをあげると子供達は大喜びで、周りの人たちや子供たちを癒してくれたんだと思います。
キャンプは現在のサンライズ九十九里のある場所です。


軍用車が何台も住宅地の細い砂利道を通り、そこを歩いているおばあさんや、猫や鳥も下敷きにして殺していく。
色々な事故は日常茶飯事のことだった。
あるおばあさんが言った「しょうがねえださぁ、日本は負けたんだもの、我慢するしかなねえさぁ」と。


小学校5年の時、昭和26年3月26日は良いお天気だった。
近所に結婚式があり、弟と一緒に見に行った。
当時は各家庭で結婚式を行っていました。
帰って来たら大きな4輪駆動車が溝に片輪を落として、ウーウーとエンジンをかけて上げようとしていた。
私はすぐに家の中に入ったが、弟は多分門の脇で見ていたと思います。
やがてエンジンの音がして車が溝から上がって、斜めに走りながら弟を引きずったまま店に飛び込んだ。
大きな音にあわてて外に出て、目の前の光景に私は声が出なかった。
我に返って母を呼んだけど、母は足をガラス戸と車の間に挟まれて気絶していた。
私の声に気がついて母はガラス戸を手で割って出てきた。
その時父は用事があって出かけていて留守だった。
カズマン(弟の愛称)がいない・・・弟の名前を呼んだけど弟は車の下で頸動脈を切られて即死だった。母は半狂乱だった。
私はなぜかその時、傍らにいた若い米軍兵士のことを思った。
昨日本土から来た19歳のお兄ちゃんで気の毒に思い、この人の将来はどうなるんだろう?・・・と。


それからは地獄の生活だった。
私は長女だから妹を助けながら何とかしなければ・・・そう思った。
弟のカズマンは小さいけど賢い子だった。
近くに駐在所があり、風呂がないので母がいつもお風呂に入るよう声をかけていたこともあって、弟は良く駐在所に遊びに行って色々な事を聞いたり教わったりしていた。
悪さもする子で駐在所の前で裸になりおしっこをしたりした。


事故の1週間前に近所の玉子屋のおばあちゃんの所に遊びに行き、穴を掘ってミシン糸の糸巻きをお爺ちゃんに繋いでもらって数珠を作り首にかけて、自分の写真を持って拝んでいたという。
6歳の短い命だったけど弟は色々な経験をした。
翌年の2月、少女ブック2月号にこの事故が載った。
全国から沢山の手紙やお金をもらったが、全部の人に返すことができなかった。
また、赤とんぼ(無人飛行機)が上空を旋回していて、民家に落ちて昼寝をしていた夫婦が真っ黒焦げになって死んだ。
補償は線香代だけ、GHQで裁判があり、母は歩けない足を引きずりながら横浜まで行った。
そして色々と調べられ、被害者なのにその意味が分らなかった。


私はいつまでも尾を引いていてはいけないと思った。
「小さい弟の死」を作文に書き、それが「基地の子」という雑誌に載った。
自分が職業を持って子供達と接することができた時に、こういう思いはさせたくない、戦争はもういい、と思った。
国会では色々な事が騒がれています。
こうして皆さんが集まってお話ができることが幸せではないでしょうか。
犠牲になった方々のおかげで今がある。


追伸
今朝本当に久しぶりに雨が降って、人間はもちろんのこと、木々や野菜が大喜びで瑞々しい顔をしていましたよ。
上げ雲で降ったようで、他の地域は降らなかったようです。