関東大震災 後藤新平の東京大改造百年の計 3.11への遺産

昨日午前8時から、NHKBSプレミアムで「関東だ震災 後藤新平の東京大改造百年の計3.11への遺産」が放送されました。
朝ドラ花子とアンの中でも、関東大震災・東京空襲が放送されている折、東京の復興がどんなものだったか、関心があったので見ました。
そして私なりにまとめてみました。

東京は木造家屋が多く密集しており、面積の43%が焼失し、被害額は50億と、当時の国家予算の3倍だったそうです。
植民地時代の満州・台湾の都市計画の実績を持ち、都市造りの第一人者の後藤新平氏が1923年9月67歳の時、帝都復興院総裁として東京の復興を任されました。
後藤氏は医者の家系で、人を育てる天才であり、仕事に命をかける。だから彼を慕う部下が多かったと言います。
後藤氏は全国から、建築・土木・社会事業などのエキスパートを集めて100年先を考えた政府原案を作り上げました。
予算は15億円。その内容は人命を守る多面的な都市で、幹線道路の幅を70m・その下には下水道を通し、公園を幾つも造り、それはいざという時に避難場所になる。
ところが、計画案を何回提出してもことごとく反対され、計画はどんどん縮小せざるを得なかった。
市民は1日千秋の思いで復興を待っている。「勝てないけれど負けない戦いをしなければ」後藤氏は縮小を受け入れ、生命と健康を公共の真ん中に置いた復興を進めた。
区画整理を提案する。住民から土地を無償で提供してもらう・・・これが難航したが、後藤氏の部下だった東京市長が根気よく地主を説得して土地の一部を無償で提供してもらう約束を取り付けて行った。
都市が復興すれば、街も繁栄し土地の価格も上がり、結局は土地の提供者も豊かになると。
こうして6年半をかけた復興事業が完了し、昭和5年3月26日に復興の完了を記念する帝都復興祭が行われたが、後藤新平氏は復興を見ることなく昭和4年に亡くなっていた。
その後全国100ヶ所以上で、人の命を守る事を目指した復興が生かされた。
後藤氏の復興遺産は時代と場所を超え、今も息づいている。
復興遺産は、今の昭和通りの道路幅が44m・避難場所は隅田公園などが残っている。
後藤氏の復興計画は後の東京大空襲後の復興にも役立っている。
あるコメンテーターが、「福島の復興で議論を重ねていく場がない」と、話していました。

この番組を見て思ったことがあります。
東日本大震災の復興も放射能汚染の対策など難しい問題が山積しているけれど、利権最優先の今の復興計画ではなく、後藤氏のように「生命と健康を公共の真ん中において」復興を進めたら道は開けるのではないかと。