ある方の東京大空襲の体験談


今日は千葉で最高気温が37℃と出ていました。
今迄で一番暑い日だと思います。夕焼けがきれいでした。


8月15日の終戦記念日に地元の公民館で、福祉ネット主催のすいとんを食べよう〜戦争と平和の話し合い」が行われる予定でしたが、企画者の都合が悪くて中止になりました。
私は何人かの貴重な戦争体験の話をまとめて保存しています。
貴重な経験談を眠らせておくのは忍びないので15日に印刷して資料を参加者に配るつもりでした。
体験者の方々も高齢になり亡くなられる方も多く、戦争という残酷な事実がどんどん風化されつつあります。
そこで、あるお一人の体験談を掲載したいと思います。
少し長い文書ですが最後までお付き合いいただければ幸いです。

東京大空襲〜戦火をくぐり抜けて』・・・Yさん(男性)
中学2年の時、太平洋戦争が始まりました。
当時は軍国少年で日本は必ず勝つと信じていた。
学校へ行っても勉強は殆どしなかった。学校から軍事訓練のために富士の練習場に行かされ、戦車の木の模型を作って肉弾攻撃の訓練をしているのを見て、それでも日本は負けるはずがないと思っていた。今考えると自爆テロですよね。
昭和20年3月10日の未明、空襲警報が鳴って飛行機が数機やって来たがすぐ引き返したので安心していた。そのあと、B29の戦闘爆撃機が空を覆うようにやってきた。
大きな化け物のように見えた。焼夷弾雨あられのように落ちてきた。焼夷弾は日本の家屋を焼くように作ってあり、最初から家も人も殺すつもりだったのではないかと思う。
犠牲者は殆どが民間人です。民間人は戦闘に巻き込んではならないはずなのに。一夜にして10万人が焼け死んだ。
消火訓練で良くバケツリレーをしていたが、そんなものは全く役に立たない。
下町は家が密集しているので燃えやすくたちまち火の海です。空気が温まると嵐のような風が起り、物が飛んで行き吹雪のように火の粉が舞う。防空頭巾も焼けてしまい、空気が熱くて素手を出していると火傷をしてしまう。みんな風下に逃げた。
逃げても逃げても火が追いかけて来て、まるで火炎地獄です。
私は逃げ回っているうちに、やっと3階建てのビルに逃げ込んだ「やれやれ、これで助かった」と思ったとたん、風の力で窓ガラスが割れて煙や火の粉が入ってきて建物の中の物が燃えて息が出来ない。
衣類を防火用水につけて吸うことでしばらくは息が出来るが、又息が出来なくなる。いたたまれなくなって又、外に飛び出したが火の海です。ビルの外壁にしがみついていた。
この時死ぬと思ったが、死と向きあうとこんな所で死にたくない、生きたいと思った。やっと夜が明けて「ああ、自分は助かったんだぁ・・・」という実感がわいてきた。
そのあと、焼けた死骸が累々とあり、真っ黒に焼けて炭化して見分けがつかない。炭の人形みたいなものです。足の踏み場がない。本当に地獄です。こんな所で助かったのが不思議な感じがしました。
焼きつくされて何もない一面焼け野原です。この現実は体験した人でないと分からない。死体の処理はトラックが来て、シャベルで死体をゴミのように荷台にほうり投げる。
戦争は人権も命の尊厳も何もない。
戦争中「お前達は1銭五厘でいくらでも集まる。馬は金を出して買わないといけないからお前達よりも大事だ」と、暴言を吐いた上官がいたそうです。「1銭5厘」とは、ようするに赤紙のことです。物は無くなり、強制疎開があって、家が延焼しないように間引きして壊される。何の補償もなしに・・・。
隅田川の橋のたもとに、若い母親が幼い子供を抱きかかえるようにして亡くなっていた。それも真っ黒焦げになって。この光景がいまだに脳裏に焼きついて離れない。
その後、広島と長崎に原爆が落とされた。一瞬にして高熱で人間は溶けて無くなってしまう。そんな爆弾を平気で作って平和なんてありえない。戦争は女性や子供など、弱い者が犠牲になる。
権力者はいつでも安全な所にいて、戦争を指揮した人は戦後のうのうと生きている。こんな理不尽なことはない。
私たちは全財産を失っても国家から何の補償もない。若い人たちは戦争をバーチャルで見ているが、戦争は人と人との殺し合いであり、戦争の残酷さを知っていただきたい。
私はあえて訴えたい。平和に対する関心が高まり、皆さんの心に少しでも平和に対する気持ちが芽生えてくれることを。平和って、すごく尊いものだということを。平和を愛してください。

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