73回目の終戦記念日「ある方の戦争体験談」

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今日は73回目の終戦記念日です。
戦争体験者が年々少なくなって太平洋戦争が風化されつつある昨今、私が過去にお聴きした戦争体験者のお話を一つご紹介したいと思います。
お聴きした時かなりご高齢だったので現在はご存命かどうか分かりませんが、ブログを通して一人でも多くの方に読んでいただけたらと思います。


『日中15年戦争の果てに』・・・Yさん(当時87歳)
昭和4年尋常小学校に入学し、尋常小学校を卒業した後、東京鉄道局(今の東京駅)に14歳で就職しました。昼間働き、夜は学校で勉強しながら兵隊に行くまで「運転部列車課」にいました。
「運転部列車課」はダイヤの組み替えや運行計画が主な仕事で、軍隊輸送も日常で12月8日の太平洋戦争開戦前は、もう戦時体制の輸送が密集しており他にお召列車の運転もありました。


20歳の時に徴兵検査で甲種合格。昭和19年1月5日、東部64部隊に入隊してまもなく1月14日頃満州に送られました。
当時は石油が不足していたがアメリカ軍がいたので、日本軍の上陸打通作戦により石油を運ぼうとした。
石油を運ぶには、黄河揚子江を渡らなければならない。
そこには強固な中国軍がいるのでその一部を分散させる為に日本軍は黄河に沿って西(洛陽方面)に向かって牽制行軍した。


その時すでに私は病気になっていて担架で運ばれ北京病院に入院しました。
ろくな治療もなく1ヶ月が経って退院させられ南京へ行った。
船で漢口(かんこう)に行き後は行軍した。道端の水を飲んだり水筒にも詰めたが、馬の死骸があって水が異様な臭いがした。
6月中旬以降ひどいマラリヤにかかって、平江(へいこう)に行った時は物も食べられない状態であった。
再入院命令を受けて漢口(かんこう)に向かった。
途中には中国の大部隊がいて襲撃され、日本人では私一人が生き残り他は全員戦死した。


ここで私は捕虜になった。(中略)・・・言葉では表現できない辛い体験があったようです。
最後は重慶の収容所に行き、日本へ戻ることが出来ました。
重慶の収容所にいた時に、支給されたチリ紙を大事にためてメモ用紙として使い、日記や詩を書き留めた。
上海で乗船前に荷物の検査があり、兵隊用のテントの下にすかざずメモ帳を隠して、幸いにも見つからずに持ち帰ることができました。
書き留めた中の一つの誌をご紹介します。


「ひと枝の桃の花 うす紅のその色に ふるさとの春をしのぶ 頬よせて なつかしむその香り ふと浮かぶ 妹の顔」


言葉では表現出来ない程の辛い体験をしましたが次回お話します。
ということでしたがその後お目にかかる機会がなく残念でした。