黄金色の田園風景の厳しい現実


こちらでは黄金色に染まった豊かな田園風景が広がり、一斉に稲刈りが行われています。
ところが、ある農業団体に勤めている友人の話では、今年の生産者米価は10,000円を割り込むだろう。
農家は肥料代や農業機械の維持管理費などを払うと自分たちの手間が出ない。これでは到底生活して行けない。
それに農業機械が壊れると新しい機械を購入する金がないので、農業を止める農家が増えているといいます。
高齢化も進み若者は到底農業を継がないし、農業はどんどん衰退して行く。
農家が生きていくためには、生産者米価は60kg17,000は必要だと。
この話を聞いてTPPのこともあるし、この先日本の農業はどうなるのだろう。と暗い気持ちでいたところ、今朝の読売新聞に気になる記事が載っているのを読んで、とても心が痛みました。
そこで全文引用させていただきました。

「食べてもらえぬ米の山」
原発と福島・・・風評の現実(2)
天井まで10mはある農協の冷蔵倉庫に、60キロ入りの米袋が高々と積まれていた。
「こんなに売れ残っているのか」。福島県相馬市の農家・竹沢一敏(50)は、米袋の壁の前でうめいた。
昨年の夏のことだ。倉庫には、市内で2012年に収穫された米が保管されていた。本来ならこの時期、7割以上がはけているはずだが、この時点で出庫は4割にとどまっていた。
すべての米が放射性物質の検査をパスしている。それでも食べてもらえない。「風評」がもたらした厳しい現実が、竹沢の目の前にあった。
竹沢の家は。風光明媚な入り江の松川浦近くで代々続く米農家。竹沢自身は、田植えや稲刈りの時期に手伝う程度だったが、10年秋に勤め先の会社が解散したため、家業に専念しようとしたところで東日本大震災に見舞われた。
震災後の相馬市内の米の作付面積は、津波被害に加え、原発事故で多くの農家が避難したこともあり、大幅に減少した。12年に地元農協「JAそうま」が農家から販売を委託された米の量は5400トン。事故前の1/4を下回った。
竹沢の田んぼも津波をかぶり、用水路が破損した。それでも、知人から農地を借りて12年から稲作を再開。作付面積は1/3以下に減ったとはいえ、収穫にこぎつけた。心配していた米の価格も、JAが震災前とほぼ同水準で買い取ってくれると知り、安堵した。
農家に事故のしわ寄せが行かないように、JAが価格の下落による損失分を肩代わりし、まとめて東京電力に賠償請求していた。
しかし、竹沢の安心もつかの間だった。収穫した米を近所に配りにいくと「私はいいんだけど、小さい孫には食べさせたくない」と受け取ってもらえなかった。知り合いの農家も孫のために他県産の米を買っていると知った。
「自分の米は、消費者に食べてもらえているのか」。農作業に精を出していても、何度もその疑問が頭に浮かんでくる。13年夏、顔見知りのJA職員に聞いてみた。「昨年の米はどうなった」職員はいかにも言いにくそうだった。「実は倉庫から出ていないんだ」竹沢は、自分の目で事実を確かめるため、農協の倉庫を訪れた。
「精魂込めて米を作っても食べてもらえない」。大きな矛盾を抱えたまま、竹沢は農作業を続ける。
今年6月、JAの会合で、竹沢は隣りに座っていたJA幹部に、自分たちの米がどこへ行くのか尋ねた。「飼料用や加工用に使われるんだ」。幹部は諦め顔でそう答えた。
米の生産者と卸業者などの団体でつくる「米穀安定供給確保支援機構」(東京都)は4月、米価維持を目的に、供給過剰だった13年産の主食用米35万トンを市場から買い取ることを決めた。販売が難しい産地の米を買い取り、家畜の餌や加工品原料として売却する。
そのうち福島県産は全国最多の5万3000トン。JAそうまからは5600トンが買い取られた。
竹沢の田んぼの復旧工事は、年内に着工が予定される。まだ工事が始まらない田んぼを見にいっては「来年の田植えに間に合うだろうか」と気をもむ。自分の田んぼと同じ6ヘクタールの農地を借りて作付した14年産米も、もうすぐ収穫時期を迎える。(敬称略)