東日本大震災から丸3年に思いをはせる

東日本大震災から丸3年が経ち、テレビ各局で特集が放送されています。
私もテレビの放送を見ながら、被災地の現状を心に留めて置きたくて目をウルウルさせながらメモを取りました。
3年経った今でも、避難生活者は26万7千人・その内仮設住宅に住んている方は10万人。
死者は15,884人・行方不明者は2,633人に上るそうです。


原発直近の町、浪江町は当時2万人以上の人々が住んでいましたが、津波原発事故で町から人々が消えたといいます。
幸いにも請戸小学校は一人も犠牲者を出さなかった。
それは校長先生が太陽光の自家発電でテレビを見て即、避難指示を出した。
児童は大平山を目指して避難したが、途中国道に出たら力も限界になって歩けなくなった。
丁度その時、トラック運転手の国玉さんが通りかかり、100人近い児童を避難所の体育館まで運んでくれたことで全員が助かった。
そして、14人の職員が子供達を守った。
国玉さんは名前も告げずにその場を去ったそうです。
昨年になって児童が国玉さんと再会出来たことを放送しておりました。
3年経っても1人も戻れない、校舎だけが残っている。
5か月前にようやく撤去に向けて作業が始まったそうです。


気仙沼市津波と火災に見舞われて海と陸の区別がつかなかったが、今はすっかり片づけられて巨大な防潮堤工事が始まっている。
しかし、復興の進み具合に差が付いている。



宮城県南三陸町の防災対策庁舎の画像が映し出されました。
最後まで命の呼びかけを続けて、43人の命が失われ生還した人は11人だということです。
県は「震災遺構」として残す事を決めましたが、「見るのも嫌だ・町民の復興を最優先に考えてほしい・目を覆いたくなる生々しさ」という住民も多く、震災遺構はまだ決まっていないそうです。
また、岩手県宮古市「たろう観光ホテル」は国が認可した震災遺構第1号だそうです。


福島県浪江町原発10k圏内は、取り残されたままで手付かずの町になっている。
汚染土の袋が裂けて土が漏れている。
袋の耐用年数は3年だそうで耐用年数がきている。
その後の始末はどうするのか・・・


原発4号機で燃料棒の取り出しが始まった。
終りのない放射能の恐怖がある。
防護服が破れるのは日常茶飯事で、原発の現場作業員は逃げられない。
現場は頭数が揃っていても素人ばかりで、被爆の問題で熟練作業員が減っている。
単純ミスが多く被爆量が増えるばかりで、現場での人材育成は困難。
東京オリンピックに伴う工事で人材が流出してしまう。
今、廃炉の現場に1日3,800人が働いている。


最後まで見られませんでしたが、コメンテーターやアナウンサーの「一人一人がすべきことは被災地以外の人達が思いをはせる事が重要」
「風化と風評被害をなくすこと」という言葉が身にしみました。


東日本大震災福島第一原発事故を次世代に語り継ぎ、原発がある限り世界の平和はない。
ということを一人一人が認識することが大切だと感じました。