世界驚嘆 伊能忠敬の日本地図

今朝8時からNHKBSプレミアム 歴史館で、「世界驚嘆 伊能忠敬の日本地図」が放送され、とても興味深く見ていました。
そして、もっと詳しく知りたくて懸命にメモを取りました。


私の住む地域の隣りの九十九里町伊能忠敬記念公園」があります。
自宅から車で20分足らずで、夫が釣りに行く宮島池公園の近くです。
小学校の頃に伊能忠敬の生家は千葉県香取市佐原だと教わった記憶がありますが、以前この公園を訪れて初めて生家が九十九里町だったことを知りました。
記念碑には、現在の九十九里町小関の名主・小関五郎左衛門家に生まれ、幼名を「三治郎」といい、17歳の時に今の佐原市の商家、伊能家に婿養子に入ったと書いてあります。
その時写真も何枚か撮ってきました。



伊能忠敬記念公園



銅像



地方測量の図


50歳の時に長男に家督をゆずり、その時現在の価値で60億の財産を築きあげたそうです。
翌年に江戸に出て幕府の天文方で19歳年下の高橋至時に弟子入りし、測量・天文観測を学んだ。
その頃の天文方は暦作りが主で、正確な暦作りに地球の大きさを知りたいということがあって、忠敬は深川の自宅にある天文台を使って緯度の差を使って計算し35,200kという距離を出したが、師匠の高橋至時は、基準となる距離が短いと正確な距離が出ない。
江戸と蝦夷地の距離を測れば正確な距離が出るだろうと言った。
その頃、松前藩にロシアの舟が度々来るようになり、幕府としても蝦夷地の地図が必要だった。


忠敬56歳の時、殆んど自費で蝦夷地への測量の第一歩が始まった。
一定の歩幅で1日40k歩き、180日かかり3,200kを踏破して蝦夷地図が完成した。
測量の方法は、方位を決めてぼんてんを二つの地点に立てて距離を測る。
この北海道の地図は現在でも1/1000の誤差しかないという。
幕府はその腕を見込み、東日本地図作りを命じた。
3年かかって地図が完成し、11代将軍 徳川家斉に披露した。
忠敬の測量がきわめて高度と精密さに、幕府は息をのんだ。


その頃、西日本にはイギリスの舟が頻繁に来ていて西日本地図が必要になり、幕府は西日本地図の作成を命じ、国家プロジェクトに発展して行った。
測量隊は大名行列よりもすごかった。各藩も総動員で測量に協力した。
忠敬は56歳から測量を始めて終了した時は72歳だった。
述べ3727日・4万kを踏破し地球の距離とほぼ同じであった。


江戸に戻り各地の地図をつなぎ合わせて1枚の日本地図を製作中、文政元年74歳で病死した。
弟子たちは忠敬の死を隠して「この地図は伊能忠敬が作ったもの」として、「大日本沿海興地図」が文政4年に完成し幕府に披露された。
日本初の全国地図で、当時の世界水準を上回っていた。
伊能忠敬「日本中を測量した事は私の天命だった」という言葉を残した。
世界が驚嘆した伊能忠敬の日本地図はシーボルト事件」でも有名です。