歴史「保科正之」

今朝8時からNHKBSプレミアムの歴史館で放送された、会津の名君「保科正之」を感動しながら見入りました。
江戸時代に、数々の斬新な政策を実行し常に庶民の利便性を優先する政治が行われていたことに驚きました。
今、こういうリーダーが日本で一番必要なんだと、痛切に思いました。
私自身、こんなに優れたリーダーが江戸時代に存在していたことを知りませんでした。
私なりに内容をまとめてみました。


保科正之」は、第二代将軍 徳川秀忠の側室「お静」との間に生まれ、幼名を「幸松」と名付けられました。(後に正之)
正室お江与の方」に頭が上がらない秀忠は認知しませんでした。
幸松は武田信玄の娘「見性院」に養育されました。
そこで、「見性院」は最も信頼のおける高遠城主「保科正光」に託し、後に養子となり21歳で高遠藩藩主になりました。
異母兄弟である第三代将軍 徳川家光に厚遇されて20万石の山形藩藩主になり、やがて23万石の会津藩藩主となりました。
徳川幕府の幕政にも関わるようになます。
明暦3年の江戸の大火では、江戸の大部分が焼失し、死者は10万人にのぼり、江戸城天守閣・本丸・二の丸・三の丸が焼け、西の丸だけが残ったそうです。
火が迫ってくる中、将軍の一時城外への避難が検討されたが、正之は、本丸が焼けたら西の丸に移り、西の丸も焼けたら本丸の焼け跡に陣屋を建てれば良いと言って、将軍を城外に出さなかったといいます。
この時、米蔵の米を取り放題にして、難民が灯を消しながら米を守ったそうです。
被災者にお粥の炊き出しを行い、火事の後、幹線道路などの拡張工事を行いました。
江戸の復興に16万両を出し、ご金蔵がカラになると反対の声が出たが、ご金蔵の金はこういう時に使うのだと言ったそうです。
江戸再建では、天守閣は実用的な意味がないので作らなかった。
第三代将軍 徳川家光が死の間際に、正之に家綱のことを託し、家光亡き後、家綱の後見人になりました。
そして三大平和政策を行いました。
1.「末期養子禁止」の緩和
  (後継ぎの居ない藩は取りつぶしになる制度を止めて、養子を取って
   藩の存続を計った)
2.殉死の禁止
  (藩主の後を追って死ぬことを禁止する)
3.大名証人制度の廃止
  (人質を取ることをやめる)
また、農地の測量をやり直して、年貢の取り方を減額したら、農民が隠し田んぼを自主的に申し出て、逆にろく高が増えたという。
他にも社倉制度を作り、飢きんがあった時に米を貸出し、飢きんが2年続いたら米を返さなくて良い。
福祉政策として養老扶持の政策を行い、90歳以上の人に終身米が支給された。
賭け金なしで年金がもらえる、これは世界で初めてで、会津藩は日本で一番安心な藩であったといいます。