恩師との永遠の別れ

小学校3年〜6年まで担任して下さった恩師が79歳で逝去されました。
(4年間も同じ担任だった理由は、恩師が大農家の長男で私たちの卒業と同時に教職を辞めて農業に従事されたからです)
昨夜午後6時より通夜・今日葬儀です。
比較的近くに住んでいる同級生男女合せて8人で通夜に参列しました。
通夜が始まる前に、同級生で祭壇の遺影に手を合せ棺に眠る恩師を拝顔しました。
「あ〜、こんなに小さくなっちゃって・・・」
思わず、友と二人でささやきました。


昭和24年頃から通った小学校は、全校生徒が300人余りの小さな学校で1クラス30人前後でした。
私たちは1年・2年と担任の先生が病弱で休むことが多く、他のクラスの先生が見てくれましたが生徒達は野放し状態だったそうです。
(それは仕方がないですよねぇ。羅針盤を失った船のようなものですから)


3年生になって若い熱血先生が担任になりました。
初めて教室に現れた時は学生服姿でした。
やっと探し当てた先生で、当時は代用教員だったそうです。
恩師も野放し状態の生徒に驚いたそうです。
それからスパルタ教育が始まりました。
宿題は265日出る・テストの点が悪ければ教室に残って勉強・体育の時間は雨でも教室にマットを持ち込んで行う・悪さをするとゲンコツが飛び、教室の前や廊下に正座させられるなどなど。
野放し状態だった私達の学校生活は、それは厳しいものでした。
父兄も恩師には絶対的な信頼をおいていて、文句を言う者は一人もおりませんでした。


厳しい中にも授業は楽しくて、地面が水を吸いこむように勉強が頭に入ってきました。
雨の日など、時々偉人伝を読んで下さったり、理科の実験では炭を作ったりジャムを作ってお昼に全員でパンを食べたりしました。
野外授業で写生やハイキングに行ったり、冬の雪の日は校庭で雪合戦をしたりと楽しいことも沢山ありました。
また、当時は毎年3学期に学校全体で学芸会が行われておりました。
私たちのクラスは、野口英世やサクランボ大将などの大作を演じて一番人気がありました。
恩師の演技指導の厳しさも当然でしたが・・・。


色々と思い出がよみがえってきますが、昨年の1月に同窓会が行われました。
その時すでに体調の悪かった恩師と、膝を突き合わせてゆっくり語り合う事が出来たことが大きな思い出になりました。
恩師にとっても良い思い出になったことと思います。
私たちはこの4年間の厳しくも楽しい小学校生活が、その後の人生に大きな力になりました。