婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑

維新の会共同代表・橋本徹氏の「従軍慰安婦」発言は、日本国内はもちろんのこと、世界各国でも批判されております。
千葉県南房総に、婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦の碑があります。
私は2006年に、ユネスコ協会主催の「南房総・戦争遺跡めぐり」に参加して「かにた婦人の村」を訪れたことがあります。
そして取材してまとめた文章をマイホームページ「みよちゃん通信」に掲載しました。
尚、南房総は様々な重要な戦争遺跡があります。
・ウミホタルの軍事利用
・食糧増産のための「花作り禁止令」
・赤山地下壕(航空機の開発・実験が秘密裏に行われた地下壕)
・128高地「戦闘指揮所」(本土決戦に備え、抵抗拠点の一として運営された)
詳しくはこちらをご覧ください。 
http://www11.plala.or.jp/miyotya/syuki37.htm


訪れた時から7年経っておりますので今の状況は分かりませんが、今一度、元従軍慰安婦の方々の過酷な事実の一端を、一人でも多くの方に知っていただきたくて掲載致します。

☆婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑
婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑に向かいました。
傾斜30度ぐらいの石畳の曲がりくねった坂を、息を切らしながら上がって行きました。
山の斜面に水仙や淡い色のすみれが咲いており、心なしか寂しげでした。
1956年(昭和31年)に売春防止法が制定され、性病や知的障害になった慰安婦の安住の地を作ってほしいと、深津牧師の強い働きかけで1965年(昭和40年)に婦人保護施設「かにた婦人の村」が開設されました。
当時のお金で1億円かかりましたが、国が出したのは1,000万円だけで、残りの9,000万円は世界中のキリスト教の人々からの寄付金でまかなわれたそうです。
村にはみかんの木が沢山植えられており、黄色く熟した実がたわわに実っていました。
入所している人達は多くのボランティアの方達のお手伝いを得て、出来る範囲の自給自足の暮らしをしているそうです。
入所者が作った手工芸品なども道の駅などで販売されています。
村では今でも100人ぐらいの方達が生活しておられるそうです。


「噫(ああ)従軍慰安婦」の石碑がありますが、この「噫」という意味は、あッ、あッ、と苦しくて喉から声が出ない事を表しているそうです。
戦後40年近くを経て、1984年(昭和59年)に城田すず子さん(仮名)という、元従軍慰安婦の胸を引き裂くような告白(石の叫び)に心を打たれた深津牧師が檜1本の碑を建てました。
その後さらに、全国166人から浄財が寄せられて、1985年(昭和60年)に「噫(ああ)従軍慰安婦」の石碑が建立される事へと発展したそうです。
石碑は、館山市内が一望できる小高い丘にひっそりと建ち、平和を願っているように見えました。

石の叫び
戦後40年、ひとりの女性の告白より



「深津先生へ・・・軍隊がいるところには慰安所がありました。
看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦
なるのです。
兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円の切符を持って列を作っています。
私たち慰安婦は死の影とともに横たわっていました。
私たちは洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。
なんど兵隊の首を切ってしまいたいと思ったか知れません。
半狂乱でした。
戦争が終わって40年にもなるというのに、戦死した兵隊さんや民間の人のことは各地で弔われるけれど、戦争で引っ張られて行った慰安婦に対する声はひとつも聞えてきません。
中国・東南アジア・南洋諸島アリューシャン列島で、性的欲望のため体を提供させられた娘たちは、死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様です。
途中で足手まといになった女はほっぽり出され、荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく、野犬か狼のエサになり骨はさらされ土になり、粉々に砕けた手足は陣地の表示板になりました。
それを私は見たのです。この目で、女の地獄を・・・
戦後40年が過ぎても健康を回復できない私ですが、今は幸せです。・・・
1年ほど前から、祈っていると、かつての同僚の姿がまざまざと浮かぶのです。
どうか鎮魂の塔を建ててください。
それが言えるのは私だけです。
生きていても、そんな恥ずかしい過去を話す人は誰もいない
でしょうから・・・


※石の叫びは「NPO法人 南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」様よりご了解を得て掲載致しました。