体験談「東京大空襲・・・戦火をくぐり抜けて」

今日は東京大空襲から73年が経ちました。
東京都慰霊堂」や「慰霊碑・哀しみの東京大空襲」などで、法要が行われたと、ニュースや新聞で見ました。
今、憲法第9条の改憲が行われようとしております。
憲法第9条はどうしても守らなければ」と、全国で市民の幅広い運動が広がっています。
私は以前、あるご高齢の方(Y)さんから東京大空襲の体験をお聴きしたことがあります。
今もお元気でおられるのか分かりませんが、貴重な体験談をご紹介したいと思います。
少し長いですが最後までご一読いただければ幸いです。

東京大空襲・・・戦火をくぐり抜けて』
1945年3月10日の未明、空襲警報が鳴って飛行機が数機やってきたが、すぐ引き返したので安心していた。
その後、B29の戦闘爆撃機が空を覆うようにやって来た。
大きな化け物のように見えた。
そして焼夷弾雨あられのように落ちてきた。
焼夷弾は日本の家屋を焼くように作ってあり、最初から家も人も殺すつもりだったのではないかと思う。
犠牲者は殆どが民間人です。民間人は戦闘に巻き込んではならないはずなのに・・・一夜にして10万人が焼け死んだ。


消火訓練で良くバケツリレーをしていたが、そんなものは全く役に立たない。
下町は家が密集しているので燃えやすくたちまち火の海です。
空気が温まると嵐のような風が起こり、物が飛んで行き吹雪のように火の粉が舞う。
防空頭巾も焼けてしまい、空気が熱くて素手を出していると火傷をしてしまう。みんな風下に逃げた。
逃げても逃げても火が追いかけて来てまるで火炎地獄です。


私は逃げ回っているうちに、やっと3階建てのビルに逃げ込んだ。「やれやれこれで助かった」と持った途端、風の力で窓ガラスが割れて煙や火の粉が入ってきて建物の中の物が燃えて息が出来ない。
衣類を防火用水につけて吸うことでしばらくは息が出来るが、又息が出来なくなる。
いたたまれなくなって又、外に飛び出したが火の海です。
ビルの外壁にしがみついていた。この時死ぬと思ったが、死と向き合うとこんな所で死にたくない、生きたいと思った。
やっと夜が空けて「あぁ、自分は助かったんだぁ」という実感がわいてきた。


そのあと、焼けた死骸が累々とあり、真っ黒に焼けて炭化して見分けがつかない。
炭の人形みたいなものです。
足の踏み場がない。本当に地獄です。
こんな所で助かったのが不思議な感じがしました。
焼き尽くされて何もない、一面焼け野原です。
この現実は体験した人でないと分からない。


死体の処理はトラックが来て、シャベルで死体をゴミのように荷台にほうり投げる。
戦争は人権も命の尊厳も何もない。
戦争中「お前達は1銭五厘でいくらでも集まる。馬は金を出して買わないといけないからお前達よりも大事だ」と、暴言を吐いた上官がいたそうです。
一銭五厘とは、要するに赤紙のことです。
物は無くなり、強制疎開があって、家が延焼をしないように間引きして壊される。何の補償もなしに・・・
隅田川の橋のたもとに、若い母親が幼い子供を抱きかかえるようにして亡くなっていた。それも真っ黒焦げになって。
この光景がいまだに脳裏に焼きついて離れない」